【特別寄稿 】第9回 人間の輝き(文:古佐古 基史)

闇はなぜ黒いのでしょう。そこでは、全ての光が吸収されてしまい、何も反射されないために、黒いのです。では、美しい緑色の葉っぱはというと、緑色以外の光を吸収して、緑色だけを反射するために、緑に見えるのです。つまり、目に見える葉っぱの色は、葉っぱの実体が持つ色ではなく、吸収されず反射された色なのです。
このように考えると、目に見える世界は、実体とはあべこべの姿であるということになります。言い換えるならば、目には写真のポジの画像が見えているのに、実際の世界の姿はネガの画像なのです。
光り輝くものは、光を吸収することなく反射しています。あたかも、「自分はすでに光で満ち満ちているから、もうこれ以上光を吸収しなくても良い」と語っているかのようです。人間の輝きもこれに似たようなものなのかもしれません。
世間では、社会の中で華々しく活躍し、素晴らしい成果を挙げて「輝く」ことが良しとされています。でも、あまりパッとしない輝かない時期というのは、誰にでもあります。このような時期はスランプや鬱などと呼ばれ毛嫌いされていますが、輝かないことは決して悪いことではありません。全ての光を吸収している時期、つまり、人間としてあらゆる経験を吸収している成長の時期には、外に輝きが発せられないのは当然のことなのです。自分自身の中に喜び、悲しみ、感動、愛、知恵、信念、勇気などの様々な光を一生懸命吸収しているからこそ、外に光が漏れていないのです。
こうやって様々な経験を吸収し、自らのうちが様々な光で満ちてくれば、それ以上光を吸収しなくても良い状態となり、少しずつ余剰な光を反射し始めます。それが、人の放つ自然な輝きだと思うのです。このような内なる光の充実を待たずに、無理に輝こうとすると、自らの内に光を十分吸収する前に反射してしまうことになります。つまり、経験や知識を自らの血肉として消化吸収する以前に外に発散させてしまい、自分自身の中身は空っぽのままという状態に陥ってしまいます。

現代社会では、コンクール、コンテスト、競技会、学力テストなどの競争により、子供の頃から何よりもまず結果を出すことを強要されますから、「輝くこと=善」という価値観が徹底的に刷り込まれ、内なる充実よりもまず外向きに輝くことを優先させてしまいます。
実際には、そんなにあわててキラキラ輝く必要はありません。金や地位や名誉などは、死んだら全てなくなります。そこには議論の余地はありません。でも、自分の内に蓄積した知恵や愛、喜びや感動の体験などは魂に属するもので、死後も残ると言われていいます。これらを比較した場合、どちらにより大きな価値があるのでしょう?
仮に全てが死後失われるとしても、生きている間の時間とエネルギーを投資すべき対象として、金や地位や名誉と、内なる知恵や愛、喜びや感動の体験のどちらにより価値を置くべきなのか、真剣に考えてみることは大切です。社会でむやみやたらに輝くことに躍起になっていることに虚しさを感じている自分に気づいたら、冷静にこのことを考えてみてはいかがでしょう。
輝くという現象は、往々にしてネガティブなものに関しても起こります。この場合は、「輝き」というよりは「放出」と呼ぶのが適切です。悲しみや苦しみをため込んでしまい、もうこれ以上吸収することはできないとなると、他者をも巻き込む苦しみや悲しみを「放出」し始めます。過去のトラウマを長年ひきずって生き続け、癒されることのない被害者として振舞うことで、誰彼かまわず接する相手を自分の苦しみに何らかの形で関わらせてしまい、彼らにも苦しみの重荷を背負わせるばかりか、その過程で治りかけた傷を自ら開いて癒されることを拒み続けているような人物。おそらく、皆さんもこれまでに遭遇されたことがあると思います。

万物には引力というものが存在していて、それは、喜びや悲しみといった抽象的なものに関しても例外なく作用していると思えます。悲しみは悲しみを呼び、最終的には悲しみを放出して他者にも悲しみを背負わせるほどになってしまう。逆に、喜びは喜びを呼び、自分の内がそれで十分に満たされると、輝きとして放出されて他者にも恵みをもたらすことができる。どちらを選択するかは、本人次第だと思います。
「そんなことを言ったって、幸せであることは自分では選べないじゃないか?幸せを感じられるような良いことはそうしょっちゅうは起こるはずないし、そもそも金がなかったら幸せになれるわけないだろ?」
これが、最も理知的な見解としてまかり通っていますが、そんなことはありません。「幸せ」は、純粋にあなた自身の内的状態であるため、そうなろうと意志することで、外的な状況にかかわらずいつでもどこでも達成することができます。もちろん、「幸せ」という内的状態に至ることを容易にする外的条件として、金、社会的地位や名誉などはありますが、それは幸せになるために絶対必要な条件ではありません。幸せを外的活動の結果と考え、幸せの瞬間を将来の成功の瞬間まで先送りし続ける必要など、どこにもないのです。
何をやっているかに関わらず、「今幸せを感じよう!」と決意するだけで、幸せはすぐに手に入ります。「そんな子供じみたこと馬鹿馬鹿しくてやれない」とお感じになるかもしれませんが、どうぞ試してみてください。実際にやってみると、決して子供じみた馬鹿げた迷信などではなく、多大な意志力が要求される非常に高度なメンタルトレーニングであることにお気づきになるでしょう。そのような内的努力の末に自らの意志で選択された幸せは、偶発的に起こるラッキーな出来事とともに訪れる受動的な幸せと同じくらい、あるいはそれ以上にリアルな幸せなのです。
幸せは幸せを呼び、苦悩は苦悩を呼ぶ。それならば、今この瞬間から幸せであることを選択したいものです。
古佐古基史:
ジャズハーピスト、作曲家、ナチュラリスト
カリフォルニア州在住。東大医学部卒の看護師・保健師の資格も持つプロのハーピスト。
渡米後独学でハープを学び、 ジャズハープの世界的先駆者として活躍中。
自宅で自給自足ファームを営みながら統合医療研究者としても学会で活動。